碧水会のリレー随想                   田島宣夫(1968 数学)        
 e0026   我が青春記、そして今・・・          原稿受領日:2012.05.22    
 リレー先指名 :  江守貞治('70)、 宮城秀夫('70)                                
 リレー随想投稿の機会をいただいた。何を書こうか迷ったが今の自分を語るのに早稲田を、理工ボートを抜きに語れない。「ボートが好きなら誰でも資格がある」との部員条件(と信じている)に甘えた中途半端部員ではあったが、その一端を、50周年記念誌投稿文とのダブりはあるが、述べてみたい。“こんな部員もいたんだ”という事、また、それを許してくれた理工ボートの広さを感じて頂ければと思う。

 学生時代、ボートに明け暮れた毎日と言えば聞こえは良いが、学生の本分たる学問をとりあえず置いといて、ボート練習とのバランスを取りながら、友達作り(漕ぐ・飲む・打つ)に邁進した日々であった。下宿が戸塚3丁目(現在の西早稲田3丁目)で大学(本部)まで5分、当時早稲田には門が無く、真夏などは深夜に酒ビンを持って涼みに行きベンチで友達と侃侃諤諤の議論をしたのが懐かしい。下宿は賄い付きで田舎出の男子学生ばかり30人、慶応1人、中央1人、学習院1人、後は早稲田だ。殆ど学生寮に近い状態で、今では考えられないが、鍵を掛けた覚えは無くプライベートは無いも同然だった。
  唯一出場した三学年秋の相模湖レガッタは忘れられないレースだ。ナックルフォアでS諸留(三年)3番田島(三年)、2番渡辺(二年)、B小林(二年)コックス原川(二年)のクルー、決勝でスタート直後に腹切りをして数ストロークは頭が真っ白だった。幸い他のクルーの頑張りのお陰で優勝できたから良かったが、そうでなければ正真正銘の腹切りをするところだった。レース後原川がニヤッと笑って「田島さん、危なかったですね!」。この話は45年経っての初めての告白でもある。ただ、残念なのは渡辺が働き盛りの50代に交通事故(追突されて)で亡くなった事だ。本当に悔しく残念に思う。

 もう一つ心に残ることは、早稲田際の後か合宿明けか忘れたが、大隈さんの銅像を囲んで校歌を歌ったことも強い思い出だ。「シャープな角帽の先端に・・・」は今でも諳んじられる。田舎から上京し、好きな早稲田に入り好きなボートを漕いでワセダを詠う。至福のときでもあった。

 ほろ苦い思い出もある。2年の冬、学費値上げ反対運動で学内に泊まりこんでいたら機動隊が動員され、捕まったことだ。その時は203人の学生が捕まった。当時(1966年)はまだ政治色は無く、学費値上げも在学生は関係なく新入生からの値上げだったが、「早稲田を金持ちだけの大学しては駄目だ」の思いだけからの反対だった。3日間多摩川留置場にいて釈放された。釈放の朝、下宿の親父さんと商学部4年の先輩が引き取りに来てくれた。下宿までの電車の中では無言だったが胸の中では有り難さに泣いていた。この件ではボートの先輩・同期にも大変な迷惑をかけた。クラブ活動をしている以上、大学との関係も有りご苦労をお掛けし申し訳ない思いで一杯だ。そして何より田舎の両親に心配をかけた。勉学に励んでいるはずの息子が警察に捕まったのだから驚くどころでは無かったと思う。大親不孝である。『思い』があっての行動だったがその結果の大きさに思い知らされ、また教えられた経験だった。

 こんな現役時代が我が人間形成に大きな影響を与えたことは言うまでも無い。多くの経験と心置けない友と丈夫な肉体を与えてくれた早稲田とボートに大いに感謝している。

 あれから45年、今年(平成23年)で67歳になる。日頃の不摂生がたたりボートで鍛えた肉体もさすがに衰えてきた。身長185cm、体重93kg、ウエスト103cmが現在の姿。2日毎の一万歩ウォーキングでは現状維持が精一杯の状況。現役をリタイアしてからはベンチャー・中小企業への経営支援活動に取り組んでいる(経営支援NPOクラブ http://ka-npo.com)。

 当クラブはリタイアした企業OB(平均年齢69歳)で構成する団体で、約150人(出身企業は100社)の会員がいる。全員がボランティア活動だが現役時代の経験や人脈を活かして少しでもお役に立てればとの熱い思いで活動している。金銭的な見返りは無いが、支援の度に広がる新たな人脈と支援企業からのお礼の言葉が何よりの遣り甲斐ともいえる。日々に新たな出会い(人であったり商品・技術であったり環境であったり)があるのが新鮮で嬉しい。75歳を過ぎてもバリバリやる会員もいて、「人間て年齢では無いな」とつくづく思う。サミュエル・ウルマン「青春」の実感という所である。。同じ43卒の青木淳も会員でいる。

早稲田理工ボートS43卒同期は15人だが、既に高橋、末松、宮田、秋葉の4人が病に倒れ残念ながら亡くなった。まだまだ若いしやりたい事も一杯あったと思う。4人の気持ちを思うと軽々に言葉が出ないが残った43同期の心の中に4人の思い出はずっと残っていくだろう。

 最後になったが、ヨメさんにはいつまでも元気でいてもらいたい。ヨメさん孝行らしいものを何もやらずにここまで来たがこのままではバチがあたる。子供たちも独立して二人暮らしだが、せめて三割はヨメさんのために時間を割くようにしたい。男がリタイアした後、夫婦円満の秘訣は『今日から女房が上司』と念じ実行することだと言われる。機会あるごとに友人にもこの言葉を贈っているし、また自分にも言い聞かせている。