碧水会のリレー随想   塚田修  1969年 工業経営学科卒
 e0019  心のふるさと 原稿受領日:2011.09.16
 リレー先指名 : 猪股広臣(1971)、表 雄三(1971)

 私たちが理工ボート部に入った年は昭和40年で70〜80近くの新人が居たと思う。最終的には今OB会に名前が残っているのが25人近くいる。川角と渡辺はもういない。私は高校時代一切スポーツをしたことが無かったので入部することに大きな不安があった。
 
 実は高校時代はドイツ語部の文学青年でトーマス・マンなどを一生懸命読んでいた。岩波100冊の本を読破したいと思っていたが出来なかった。唯一ボートへのつながりと言えば親父が東工大でボート漕いでいたことがありその写真が残っていて見た事があったことであろう。

 合同練習の「ドイツ式」はきつかった。10種類くらいのサーキットトレーニングの間を全て縄跳びでつなぐので休む暇が無い。倒れる仲間も何人か居た。一年先輩に熊がいて恐ろしい顔で怒鳴っていた。今は歳をとって随分柔和になった。くたくたで部室にもどると平野とか高橋という猛者連中がいて、腕立てとか腹筋をこれ見よがしにギンギンやっていた。嫌なやつらだ。

 週一回くらい日本女子大を一周するコースではとんでもなく早い原川などがいて小学校時代から亀さん一家と言われた塚田家の一員はビリであった。マラソンの早いやつは嫌いだ。夜はいろんな友人の家に良く泊めてもらって夜中まで酒を飲んで哲学論やら女論のような話を良くしたなあ〜。川角、平地そして渡辺の家には良く世話になった。花田の下宿は本当に汚かった。長い間洗わないパンツが片隅で黒く腐っていた。

 我が家にも仲間が何人か来てくれて泊まっていった。あるときは近くの公園で飲んで格闘し泥だらけになって家に帰ったらおふくろが何も言わずに2人の洗濯をしてくれた。どのやつも実に自分より肉体的にも精神的にも早熟であり驚くことばかりであった。

 誰がつけたか知らないがひどいあだ名ばかりだ。ゴリラ、屁ッ痔、インケイ(漢字では書けない)、糞転がし、久マル、とんぼ、ミジンコ、フランケン、お釜、偽善者婆、かあかあカラス、ばい菌、スピロヘータ、扁平、キンボウ等。

 そして皆本物の爺になった。間違いなく自分達の青春はこの仲間たちにあり、戸田の合宿所にあり、真夏のコース沿いに真っ赤に咲いていたカンナの花にあった。そこには甘酸っぱい片思いと友情と厳しい肉体トレーニングがあった。そんなボート部と仲間たちには今でも感謝の気持ちで一杯だ。その内100歳まで生きたら1000万円くらいボート部に寄付したいと思っている。