碧水会のリレー随想   青木 淳  1968年 資源工学科卒
 e0018  コックスならではの苦労と爽快感 原稿受領日:2011.09.12
 リレー先指名 : 塚田修(1969)、藤田健助(1968)

 私が入学した1964年は理工学部新校舎が完成し、一部の科目を除いて新校舎での授業がスタートした年であったと記憶している。

 入学して早々新キャンパスで理工ボート部の部員勧誘が行われていた。今は誰だか覚えていないが、ある先輩からやけに熱心に入部を勧められた。当時の私は身長160センチ、体重50キロに満たない虚弱な学生であった。大学に入ったらもう少し体力をつけたいなぁとの願望だけで、ボートに対する具体的な認識は殆どなく、なんとなく優雅で知的なスポーツだなぁとの漠然とした認識であった。「私にボートが漕げますか?」との質問に、「漕げる、漕げる、まったく問題ない。とにかくここに名前を書け!」との事で入部した次第である。

 陸上トレーニング、ウエイトトレーニング、そして尾久での乗艇練習と結構熱心に参加した。そして相模湖での夏合宿、、、。ようやくこの非力な男にボート漕ぎは無理だな、、もう止めようか、、、、と思い始めた頃、件の先輩より「お前、コックスやらないか?」との勧め。「もし、OKなら秋の相模湖レガッタのコックスとして出場させてやる。どうだ?」と来た。ボート部の雰囲気は良いし、魅力ある先輩と同期の仲間も悪くないなぁ。それに一年生でレースに出れるのを断る手はないな等々思考を巡らし、「わかりました」と答えてしまった。

 しかし、1年、2年の時のコックスとは実につまらなく、且つ辛いものであった。乗艇練習の時は、メニューはすべて漕手の先輩より次はこれをやれと言われ、それを鸚鵡返しに皆に伝えるだけ。漕手のオールを見ても良し悪しの判断ができない。それに船台に接岸するのを失敗すると先輩から「何やってんだー!」と怒鳴られる。乗艇後、漕手は体操が終わったらすぐに飯にありつけるが、コックスは船の雑巾がけ、リガーやクラッチの調整が残っている。そして合宿所に戻ってくれば漕手の擦りむけたお尻のアルコール消毒もコックスの役目だ。

 コックスの面白みが分かって来たのは3年生の頃からである。そしてエイトの醍醐味!!レース本番はまさにコックスがすべてを判断する。風の具合、漕手の個性と体調、リズム、ピッチ、他艇の状況判断、そしてすべてを出し切ってゴールする。この爽快感!!

 この爽快感を得るためには、日ごろのたゆまぬ練習と漕手との信頼関係の構築が不可欠である。コックスはコーチ不在時のコーチ代行も務めねばならない。クルー編成からレースまでの過程は実に楽しいものであった。そしてクルーの健康管理。長い合宿生活を続けていると漕手の体重はジワジワと下がってくる。そして練習メニューがピークに達すると疲労が蓄積し精神的にも落ち込んでくる。このような状況を的確にキャッチしコーチ、監督に伝える。

 このよう過程を通してレース展開の構成を作り上げる。スタートダッシュ、コンスタントピッチ、ミドルスパートのタイミング、そしてラストスパート。とにかくクルーのリズムは漕手の体力と個性に応じて作り上げるものだ。これがボートの醍醐味である。

 そして4年生最後のレースはオックスフォード楯レガッタエイト。
メンバーはC:青木(4年)、S:秋葉(4年)、7番:杉原(3年)、6番:瀧本(3年)、5番:塚田(3年)、4番:小林(3年)、3番:佐藤(4年)、2番:坂本(4年)、B:末松(4年)

レース結果は;
予選1位、準決勝1位、決勝4位(残念)
そして、4年生の夏が終わった、、、。

 1968年卒のボート部の同期は14名いた。その内3名が既に故人となっている。高橋正夫君は2000年5月に54歳で、末松格次君は2005年4月に60歳で、そして秋葉壮八郎君は今年2011年2月に65歳で他界している。皆、癌による病死である。それぞれ個性豊かな仲間であった。同じボートに乗った仲間の死は寂しい限りである。この場を借りて故人の冥福をお祈りしたい。 合掌

 当時50キロ前後であったコックスがその後肥大を続け、漕手をしのぐ75キロをオーバーし遂に糖尿病を宣告された。4週間の入院を経て現在15キロの減量を目指して食事療法と運動療法に専念している。現在10キロの減量に成功しあと5キロである。早く健康を取り戻したと思う今日この頃です。

以上