碧水会のリレー随想   佐藤 眞人  1967年 機械工学科
 e0017  回想録   原稿受領日:2011.08.25
 リレー先指名 : 葛生宏夫(1967) 仁野 昭(1967)

 同期であり、同じクルーで辛苦を共にした初島からリレー回想録を依頼され、さて何を書こうか考えたが、何分にも40年位前だし、思い出したら、いろいろ有ったので何を書いたら良いか分からない。その上、今理工漕艇部が部員減少で存亡の危機に瀕していて、主に42年卒の連中が再興のために努力していると聞いていたが、その同期の金谷からもメールが入り現ボート部を心配して『佐藤この危機から脱する切っ掛けになるような回想録を書いてくれないかな』等の依頼も受けた。そんな事を聞くと余計何を書いたら良いか分からなくなったが、取りあえず過去の私のやったこと、考えていた事、感じた事でも書いたら良いのかなと思いペンを取りました。

 私が入部したのは理工漕艇部が出来て2年目の出来立ての部でありました。私が入部する気になったのは次の4項目が主だったような気がする。

・ 今までは勉強一筋だったが、社会に出たら、頭脳と体力が両方必要になるから、大学に入ったら何か運動をしようと思っていた。
・ ボートとは『ヒーローなきスポーツで究極の団体スポーツ』と言われて何か魅力を感じた。
・ 理工学部の人間は体育局の運動部では時間的に無理が多いので理工漕艇部が適する
・ 部に勧誘されたのが、確か柳内先輩だったと思うが、爽やかで品格のある素敵な先輩であり近くにいた他の先輩もカッコよかったのでボートをやるとあのような人達になるのかなと憧れた。

 部に入った時はそれ程練習も苦しくなかったが、ボートになかなか乗せてもらえなかったので多少不満があったが(実はこうすべきことだったことが後で分かるが)、トレーニングには良く出た記憶はあった。しかし、夏になりあのまったりとした荻野(福島県、西会津)での夏合宿が訪れ練習は非常に辛かったが一変でボートに魅せられた。そして夏休み後は一層基礎体力を付けるべくトレーニングに励み、少しずつではあるが、尾久(隅田川)での乗艇練習もさせてもらった。そして1年上の先輩が少なかったためか比較的早くにレースに出させてくれた。それがボートにのめり込んで行かせたことを加速させたかもしれない。しかし、部は出来たばかりだったので、自分達のオールすら借り物だったのでみんなでアルバイトして資金を稼いだことも思い出された。一番の稼ぎはダンスパーティーだったような気がする。なにせ早稲田の理工のボート部と聞いたら、女の子は良く集まって、当日の会場は男の子が少なくて後日苦情が多かった事を思い出す。

 少し脇道にそれたが、私個人としては1年の前半は受験で落ちていた体力を元に戻す時期のようだった気がする。そして1年の後半から2年の春まで遮二無二に基礎体力の向上と基本漕法を体に叩き込む時期だったようである。懸命な陸上トレーニングと乗艇練習により『強き者は競技せよ』のグループに入れてもらった。でもこの時痛感したことは不器用で物覚えが悪い私が対抗クルーで競技に出られるようになったのは人一倍のトレーニングと練習に励んだ賜物だと今も信じている。『練習は絶対嘘つかない』である。そして結果として2年最後の大勝負であった全日本大学ナックル選手権でAクルーで出させてもらった。しかし準決2位で決勝進出すら出来ず苦杯をなめ『来年こそは』と心に決めた。しかしこの戦跡が部運営でのあるべき姿の議論に大きく影響させたと思われた。

 2年のシーズンも終わり、今年の戦跡を踏まえながら今後の部の運営方針について部会にて活発な議論を戦わされた。しかしそれはまさにこの部を創設した先輩達の悩みと同じことであった。これ程練習したのに全日本大学ナックル選手権に決勝すら出れなかった。これは『健康なる者』や『弱き者』と一緒に活動しているからだ、排除すべきとは言わなくてもやる気のないやつは面倒なんか見ずに部としては『強き者』が競技に勝つことに専念すればそのうち『健康なる者』も付いてくるだろうと言う意見が強く出て一時はその方向に傾いた。

 しかし最終的には柳内先輩達が唱えた『アマチュアスポーツの原点』である『病める者』、『弱き者』、『健康な者』、『強き者』が共存して補完し合い, ボートの素晴らしさを分ち合う部が理想であり、やはりその精神を引き継ぎ実行する事が我々の使命であるという事で大勢を決した。しかしこの悩みは勉学の遅れへの悩みと共に理工漕艇部においてどんな時代も常に立ち向かってきたと思われるが、これも理工漕艇部の宿命みたいなものだと思っている。

 そんな中、私事ではあるが父が経営していた会社が倒産しボートなんかをやっている状況ではなくなり、ある先輩に相談したら休部なんか何時でも出来るし、今はオフだから活動も少ないし春まで状況を待って決断したらと言われ、私も楽観主義者なので思い留まった。しかしその後主将である近藤からサブキャプテンをやってくれないかとの依頼があった。それは全日本選手権で同じクルーで苦杯をなめた仲間近藤が去年の雪辱を共に一緒にやって行こうやとの事であった。私も去年の雪辱を是非やりたかったが、今の私の状況では部に留まるのが精一杯と辞退した。しかし再度頼まれたので決心した。俺は『強き者』の中には入らない、それは近藤に任せるから頼む。そして俺は『健康な者』、『弱きの者』を引っ張っていくと言うことで引き受けた。そして部の対外的関係は全面的に高見マネージャーに任せることで新体制は走り始めた。

 我ら理工漕艇部も思考錯誤ではあったが徐々に部の呈をなし始めていたが、強くて、ボートを愛する集団にするにはもっと多くの新人を入れて知ってもらう事からだと思い、40年度は新入生勧誘を部員全員で大々的に行った。勧誘の仕方は前にも述べた入部理由やボートをやって得た下記のような魅力を力説した。
・ 運動部と言うとなんとなく猛者(もさ)の集まりと思うが決して違う。ボートは紳士のスポーツでありインテリジェンスを必要とする。現にボートの発祥地はイギリスであり、昔からテームズ川でのケンブリッチ大とオックスフォード大のボートレースは100年以上も前からの伝統あるスポーツまた当時は日本でも国立大(特に 一ツ橋大、東大)が強かったのはボートだけだと思った。
・ 静かな水面を滑るように走るボートから聞こえてくるのは水面を切る舳先の音。それを聞きながら漕ぐ快感は最高。→普段練習中そんな余裕はなく、練習の終盤に偶にあった事だが・ 何と言っても最高の団体スポーツで全員がバランスを取って一体になったときの快感は最高、これは口では言い尽くせない。やらなくては分からない、是非ボート部に入って体感してみない?こんな話で部に入った後輩も多数いたかもしれない。

 こんな誘いに勧誘され入った新人がなんと70名強 いた。それは2年以上の合計部員より多いのである。私はサブキャプテンであったが新人コーチも兼ねていたので入れた70名を如何に辞めずにまずは夏合宿まで引っ張るかが最大の課題であった。入部した時の気持ちを持続させることが大事なことと思い、4月下旬から2回/週 授業終了後陸上トレーニングをやり、まずは基礎体力の充実に専念した。受験で体力が落ちていたが、全員良く頑張っていたことを思い出す。

 途中で半減は覚悟していたが夏合宿まで残ったのがなんと新人50名。そこで新人50名では乗艇練習を全員一緒には教えられなくて2班に分けて前半組と後半組にした。私は両方に出てトレーニングの一貫性と各新人の実力の把握に努めた。そしてその1年後には2年生クルーだけで春の都民レガッタ、戸田レガッタに5クルー編成し、出場できるまでに全員が頑張ったことは考えていた以上の発展ぶりであった。これが先々 本チャンの早稲田大学漕艇部も羨む大きくて強い理工漕艇部の礎になったのではないかと思っている。

 それと話は少し変わるが、理工漕艇部は決して運動だけを活動目的にはしなかったのである。体力は『弱き者』ではあるが心は強い者もいれば、体力は『強き者』ではあるが心に弱きところがあったりすることもある。人生 生きる上でいろいろ経験して考えることも多々ある。ましてや20才前後の青年期である。そこでそれらの意見交換の手段として部報第一号の発行に至る。これは一番怖くそして尊敬する我がコックスで同期の大枝がこの企画を計画推進し編集長も務め創り上げたのではないかと思う。

 その第一号(1965年春)に私が投稿した文章があったので、当時どんなことを書いていたかを懐かしく思い書いて見た。

『創刊にあたって』                     副主将 佐藤眞人
 我等早大理工漕艇部はようやく土台作りも出来、飛躍的発展に際して是非とも必要な部報がここに創刊されましたことは非常に嬉しく思います。これもマネージャー高見君、編集長大枝君の尽力によるものと感謝いたします。さて部報について少々望むことを書きます。ボートはスポーツの中で最高の団体スポーツであるが故に、あくまで艇から離れたら個人個人のバイタリティがいろいろ出ていいと思います。同じようなトレーニングをし、同じようなフォームで、同じピッチで漕いだ人間一人一人が考え方、感じ方において違うが、それが一つの部として調和を保っているのが理想的な形だと思います。
 
そのような形にまとまるため、お互いを理解し、又自分の意見もどしどし言うための場として、部報を利用したらいいと思います。陸上トレーニングで、乗艇練習で、合宿で、レースで培われた思想、信条、もっと身近な漕法について、ボート部での、また人生での悩み、感激を、先輩から後輩への、又後輩から先輩への不満、願望、ボート部への不安だの何でもいいからどんどん部報に原稿を出そう。皆が書き、皆が読み、皆が考えて、その中から今問題になっている部風というものも自然に固まっていくだろう。この部報によって、よい部風がのびのびと形成されていくことを望む。みんなで部報、部風を我が子、我が親と思って育て、養っていこう。なんて書いていたり、別の立場で次のような文も投稿したりしていた。

 『新人部員へ』                         新人コーチ
 新入生諸君、何よりもまず”おめでとう”と言おう。そして諸君が早大理工学部で一番部活動の活発なボート部に入部したことを部員一同は双手を挙げて歓迎する。もうすでに始まった陸上トレーニングで体力をつけて、荒川で、設備最高の戸田で、水の澄んだ相模湖で一度みんなで漕いでみよう。ボートの良し悪しはそれからだ、ボートの話はそれから始めよう。我々早大理工漕艇部は基礎組織が出来、これから発展期に入ろうとしている状態であるから、諸君の創意、自主性、頑張りに期待しなくてはならない。”それでは一つ、俺がボート部をしょって立ってやろう”、”もう一つスケールの大きいボート部にしてやろう”と思って頑張ってもらいたい。ボート部もまだまだ手が届かない いろいろの分野がある。新入生にはいろいろの人がいて、その人達一人一人がボート部の一本一本の柱になるように今はまず合同トレーニングに出て体力を付けよう苦しいのは一ヶ月だ。一ヶ月経てば余裕が出る。それまでは何が何でも先輩と一緒に頑張ろう。諸君のエネルギーに、ファイトに、精神力に、底力に期待する。

第2報も出したがここでは省略し第3報にはこんな物も出している。

 『魅力』                          4年 佐藤眞人
 最近、たまに部室に入ると”老体”だの”老馬”だの言われるし、掲示にもOB扱いされている。しかしこれも実際部活動をしていないから仕方がないと思う。こう言う事が私には不愉快だと言うのではなく、この頃はそう言う風に言われるせいか、部や部員の事を第三者的立場で見られるようになったと言うことである。それにより今まで当事者であった故に分からなかった事が少しずつ見えてきたような感じがする。部については、また機会を見つけてみんなと話し合う事として今回は我等部員について、ボートをする者について、第三者的に感じたままに書いてみよう。勿論私はボートを好きなように、ボートをする者も私は大好きだ、特に早大理工漕艇部の部員を。それではどこにその魅力を感じたか、ちょっと考えて見た。

 まずこれにはボートというスポーツの性質からくる要因が大きいと思う。それは基礎体力を非常に重要視するスポーツである事からいつも自分の体の限界を伸ばすことにひたすら頑張る。もしかしたらその限界に来ているかも知れない体力を必ずもっと伸ばす事を一途に信じて練習する。

 またローイングの動作と言ったら、テニスや野球とは比べられないほど単純な繰り返し動作である。その単純さに負けない一途な情熱が必要だ。良くボートは馬鹿になったら一人前という。この複雑な世の中を巧みに分析するような利巧な人間には、この単純さを軽蔑して、または堪えられなくなってしまうと思う。しかし私は馬鹿になるべき時に馬鹿になれない人間はやはり、ボートに限らず一人前とはいえないと思う。ボートをやる者はこの『馬鹿になる』と『馬鹿である』との違いを自然と知っている。スポーツをやる上において大切な一途な情熱というのは『馬鹿になる』と言う事の副産物であると私は感じている。

 ・・・・・・・・・・・・・(なにせ、この頃の部報はガリ版刷りという手法で作ったので時が経つと見えなくなる場所が出来、分からない)・・・・ ・・・・・・・・・・ ばてればばてるほど頭にくるような言葉・・・・・・・これもコックスの立場として義務として言わなくてはならない。漕手がいくら苦しくても漕がなくてはならないようにコックスは言いたくなくても憎まれ役になって言わなくてはならない。注意される事ももっともな事だし、他のメンバーに比べてやはりその点は劣っているのだ。早く直さないと他のメンバーの足を引っ張るようなものだと思い素直に自分の非を認めるようになる。例え自分はそうでないと思ってもやはり当事者より第三者の方が良く分かるものだと思う。ここにもスポーツマン特有な素直さというか謙虚な態度というか、とても気持ちの良い態度が滲み出る。

 その上にもう一つ、理工学部なるが故の学業の忙しさがある。練習が終わってから大きな悩みである学業の遅れへの不安が顔をもたげる。『こんな事で良いのか』と、そんな悩みを持ちながら、やはり止められないボートの魅力に取り付かれる。何でも吸収し易い青年期に少々忙しくても多くの物を、いろいろな事を体験することだと思い、学業の方は少々遅れながらも、卒業するまでには学校でなくては学べないような事だけは必ず学び取ると確信する事である。この遅れが心理作用としてか、ちょっとした所で淋しさを持った深みのある人間に見える。しかし全体的にはスポーツマンの良さであるカラリとした明朗さが包む、私はそこにも魅力を感じた。

 ここに三つ四つ良い魅力を上げたが、ある人はその中の一つを強く持っているし、またある人はダブって二つ三つ持っていたりする。一つ持っているものはそのカラーが強く、二つ三つ持っている者は相互干渉してカラーが弱く見えるだけでどちらでも良い。君達をこんな風に感じたが何分独り善がりのところもあるが、それはご容赦を

 第一報(1965年春)の投稿者は8人で始まり、第2報(同年冬)に20人になり、なんと第6報(1968年冬発行)の部報の投稿者は50名近くに登っていた。そして内容は運動部の部報とは思えないような、中には哲学的な(?)匂いのするような文も見受けられた。ボートの真髄はバランスである。よって体だけを鍛えるのではなく、心もちゃんと鍛えていたことも部報の中から十分に読み取れた。体と心のバランスも取れたオアズマンを育成出来る部になっていた。

 私が卒業してからはボート部には係わらなかったが、早稲田の校歌ではないけれど『人は変われど久遠の理想を掲げ』創部以来の信念を持ちながら発展していったことを信じていた。その一端を卒業してから垣間見たのが8年後だったか、『早大理工漕艇部はアマチュアスポーツの見本』のような新聞記事の掲載を見た時、良し良し”ヨウヤッテルナ”と、ほくそ笑んだ次第である。

 そして丁度同じ頃私は神奈川県相模原市にあるキャタピラー三菱(現キャタピラー ジャパン)という会社でボート未経験者を自ら集めボート部を創設し監督として相模湖レガッタに2クルー出場させていたこともあった。勿論選手としても。その時に早大理工漕艇部がナックル艇は卒業しシェルフォア3クルーを出場させているのを垣間見たことをチラッと思い出す。

 それから約10年後、ある時俺からボートをやったらと一度も言っていなかった高校生の息子が、『俺ボート部に入ったよ』とボソッと言ったのを聞いた時には本当に嬉しかった。そして3年の時早大学院ボート部の主将でインターハイに東京代表で出場している。勿論早慶戦も応援に隅田川に行って楽しませてくれた。そして奇遇な事にその時の学院ボート部の監督はなんと黒河内さんだった。実はそしてその25年前私は大学2年の全日本ナックル選手権の臨時コーチをしてくれたのが黒河内さんだったのである。つまり2代に渡ってボートを指導してくれたこととなる。縁とは面白いものである。

 これらは私の回想であるが、この回想はボート部発展途上の様子なので一部理工学部漕艇部の再興のためにでもなったらなと思って書いてみた。今思い付きではあるが私の再興への個人的見解から言えば、現役の部員がよりボートを知って、ボートに悩み、勉学の遅れに悩み、それらを友と共有すること、そしてボートを愛する心を自ら勝ち取ること。そして新入生にこのボートの素晴らしさを知ってもらうために多少誇張してでも新人を勧誘し、『ボート教』伝道師になることかな。これによって部自身の充実と拡大になり再興への近道になると思う。

 最後になるが、ボートの良さはいろいろあり、人それぞれだが、回想のなかでいろいろ良さも述べたが今改めて想うことはボートの真髄とは以下の二つであり、それが社会においても大切なことであったと痛感している。

1.一つはボートは如何にうまく水をキャッチし続けることかである。つまり船を固定すれば水は後ろに流れているのであり、流れているうえに水は流体である。つまり流れる状態を見ながら後ろに流れてくる流体を如何にオールで多く掴み続けるかが勝負である。この技術に到達点はない。そしてこの難しさは会社に入ってから大事な場面で同じような感覚を覚え、その技術の大切さを実感し考えたこともあったのである。

2.もう一つ、ボートは如何に良好なバランスを取り続けるかである。誰か一人でもバランスを崩すものがいれば他の全員は全力では漕げないのである。また優秀な漕手一人だけが他の漕手よりずば抜けたクルーがあったとすれば、その艇は間違いなく曲がっていきコックスは舵を取らざるを得ず、艇速は落ちるのである。少し厳しい極端な言い方をすればボートの実力はクルー全員の中で一番実力のない人間がそのクルーの実力になるのである。つまりボートのレースに勝つためには自分の実力を磨きながら、自分のレベルより低いレベルの者を引き上げなくては勝てないのである。例えば野球で言えば9回裏逆転サヨナラ満塁ホームラン、または無失点に抑えた投手はまさにヒーローであり、それで勝てるのである。サッカーで言えば連敗の韓国に3点も取った香川、本田がいたからこれらのヒーローで勝てたのである。しかし、ボートにはヒーローはいません、腹切りはいて負けても。つまり『ヒーローなきスポーツで究極の団体スポーツ』なのである。しかし、オアズマンとしてはチャンとした『マイ ウエイ』を持っているのである。そしてこのバランス感覚は社会に出たらもっと大事な局面で同じように必要になったことも実感として感じられたこともあった。

ボートから得たものも含めて随分長々と回想録を書いてしまったが、自分の過去を振り返る良い機会になったと思っている。書きながら思ったのだが、別に人に読ませるつもりではなく、自分の日記でも書いているつもりで書いてしまったので、人が読んでも     ”チットモ” 面白くなかったかもしれませんが。