碧水会のリレー随想   高見昌博  1967年 建築学科
 e0016
   理工ボート部草創期の総合的理解  
原稿受領日:2011.08.09
 リレー先指名 : 

 50周年を迎える時点の「リレー随想」なので、先ず最初に 私達38年入学・42年卒の活動も加え我々より先輩達の「部の草創期の寄稿文」と「関連実態調査」によって私は最近全体像を理解できてきましたので、敢えて皆様の理解をすすめる意味合いで記述します。
 
 元はと言えば(1)、(2)の2つの流れが合体して葛藤を繰り返し理工ボート部の産声をあげたが、(3)、の昭和38年以降の多くのかけがえの無い部員が加わって育てられ、底辺の広いしっかりした組織に生まれ変わり、(4)、稲門艇友会からの 部及び部員個人の葛藤の相談に物心両面支援をいただきつつ一方いざレースに出る限り勝つ事が可能なバックボーン造りの強力な支援を受け (活動の質・内容)逞しく・成長してきた。(5)それとあいまって理工学部当局の物心両面にわたる援助(心棒・核)と理解が梃子になり経済的にしっかりした基盤の部になってきた。

(1)早稲田大学が 将来への発展の為 理工学部の1部・2部制の廃止・改組に伴い新しいカリキュラム改革・実験・実習・研究できる新大久保キャンパスの建設を行い、昭和35年から順次カリキュラム・実験・実習・変更運用が始まり、38年秋から教養課程の授業運用、事務部門・大学院の運用も始まりました。

□35年入学の柳内さん、中島田さん、佐藤肇さん、高橋清文さん達、体育会ボート入生組(後マネージャー役の渡辺紀仁さんも加わった)はカリキュラム・実験・実習の時間的制約により両立が難しくなり「議論を重ね」稲門艇友会から独立・理工学部ボート部創設を訴え、かつ部員集めを行い、36年、37年と産みの苦しみ・葛藤を経てきたとお聞きしてきた。

(2) 一方 上記部員集めに応じてきた方々の流れ。早稲田大学は、早くから学業だけでなく健全な体育教育を取り入れ、野球やラグビーと並びボート早慶戦に代表される運動部活動を推進してきた。そして全学生の体育系の必須授業の1つに「漕艇授業」を設けてきた。その推進の一環として体育局・体育会漕艇部主催の「尾久の早大艇庫前の隅田川において、水上運動会」が毎年秋に実施されてきた。

□参加者は授業うけた全学の学生であったが、その常連参加者の多くは 金属科・鋳物研究所に代表される理工学部各科であったと稲門艇友会側の方々からもお聞きしていた。・・・部員集めに応じてきた多くの方であるが、種々の理由により単に合体するだけでは 前記のメンバーが目指した部活動にならなかった。
□そのかわり「水上運動会」を予算付で戴いて「相模湖・理工ボートレースと称し」理工学部各科を中心メンバーとしてなおかつ難波学部長の「理工学部学友会活動の一環」の了解をとりつけ、レースを実施してしまったのです。
□早稲田大学にとっては折りしも本部近辺での大学紛争で「施設も革マルに占拠」されサークル活動が荒廃していた。再生・発展を目指した理工学部改革に着手し 昭和38年秋大久保キャンパスのスタートにあたり、他の運動系サークルも育成・支援して新しい「理工学部学友会(理工展・文化系に加え)」を立ち上げ 「生き生きとした 学生生活を送れる象徴として」ボートレースがメインであるが「第一回理工スポーツ大会」を相模湖で挙行したのであります。
□40年入学、44年卒の原川さん達は機会ある毎に振り返ってみると当時は 理工スポーツ大会開催中大学は休み、ユースホステルに泊り込んだ 各科のボートレースへの参加者、ボート部の運営支援者は練習も含め休講扱いであった。

■現在も理工学部当局から、ボート協会加盟費、選手登録料、レース出艇料、エルゴ大会、ハーフマラソン大会参加料を出してもらっている。
 
(3) そして我々38年入部ボート部員が多数入り、上級生OJT・漕艇体験から始まり 部室及び周辺トレーニング場での 基礎体力づくりやミーティングを活発に行い ※1 対外団体からの借艇・練習することで「運営も含んだ」部活動の基本が身についてきた。そして 「画期的な」荻野での新人合宿を経て、中日本レガッタ、大学ナックル出場、「第一回新生理工スポーツ大会」の運営・参加等の基礎的部活動が活発になり、体制造りが軌道に乗ってきました。他の新生サークルと同様 1年生も上級生と一体となり、※2下記の大学からの要請の矢面に立ちいざ実行段階においても、目覚しい成果を得ることができました。

■理工ボート部の最も重要な部運営の伝統の誕生 3年生⇒1年生
昭和39年シーズン終了後 対抗に乗っていた2学年生の佐藤眞人さんに 翌年度から「柳内さん達が38年入学組に施してくれた諸教育を新しい概念の役割に発展させた・新人コーチ=人格を賭け、上級生の協力も得て、翌年の新入部員へ運営面も含んだ全ての基礎教育・合同トレーニングを行っていく」に就任・実践してもらった。以後数十年に亘り、理工ボート部の最重要な部運営の伝統が伝承されてきたのである。

(4)柳内さん達の意向に賛同していた稲門艇友会は、底辺の広い同好会としての自立活動進化を見極めたうえ、レースに出場するからには「勝つことを目指せるバックボーン=部としてのトレーニングの高い質、内容・量」を確固たるもの(マネージ)にするため、網中さん、谷古さんの指示で オール早稲田の観点から 昭和40年1月から 浮田監督をはじめとして、鈴木誠さん、黒河内さん(39年入学の高橋正夫君の学院コーチの関係から、先行して39年中日本レガッタから)、棚田さん、筏さん達を送り出し、強力な支援を開始していただきました。

  特に 浮田監督には、産声をあげたばかりの五里霧中の部の運営や部員個人の学生生活の葛藤の相談にのっていただき、かつ一口で表せないような物心両面の支援をいただいた。任期以後も長い間 「我々の舵」を適切な方向に切れるよう 見守っていただいた、中興の大恩人であった。

□逆に早慶体育会にお返し、昭和53年、墨田川「言問い団子前」桜橋の建設予定地にて第1回復活早慶戦が挙行された。桜橋の完成、護岸の公園への変更・完成まで 当時の理工ボート関係者が中心になって施設設置・運用・撤収役割を担った;山口部長・デルタ造船、浮田元監督・O重機、高見元監督・S建設、大会運営は両校体育会漕艇部、端艇部、及びOB会、各橋の警備は警察の許可条件で早大理工ボート部員100名が不可欠であった。

※1 解説:当時20人前後の新入生を土日漕艇練習させるには、交代で使うとしてナックルフォア2艇〜3艇必要であり、それには借りる事前交渉から、借りる・返却の礼儀のやりとりも実行できなければなりません。いざ練習にとりかかるとき コックスが出来て 艇の取り扱い、艇の出し入れ、借りた艇・オールの清掃・手入れ・必要に応じ修理までを 教えられる、かつまた漕艇の基本動作・漕ぎかたを教えられる上級生が2〜3人同乗したのです。

□借艇・漕艇練習が主のボート部新入部員は入部したら直ぐ「否応無しに」部の上記のような「運営そのもの」を「先輩部員にマンツーマンで教えてもらいながら」身に付けていったのです。・・・対外的にも、部の先輩達の汗の結晶に対する、「感謝と敬意」が自然と身に付くのです。
 この時 既に借りる艇が無ければ、自分達がバイトして買うしかないことにも気が付いていましたし、更に皆の心の中では 人数が少なくなってしまえば、出し合ったとしても、購入できない金額であることも 気付いていました。

■これらは 前記新人コーチ から長年伝承されてきました。

■しかし、残念ながら食い止められずに 部員が極端に減ってしまった時期が到来し、上記の基礎を身に付けさすことなど(残念ながら)論外になり、新人コーチ制も崩壊してしまった。

□続いて 総勢35人参加の新人・荻野合宿が用意されていました。借艇の基礎が少々素直に身に付いている新人に ボートレースに出られる体力・漕艇力をつける目的で、1日3ラウンド2週間〜20日の結構ハードな乗艇練習が組まれていました。(数日で、尻の肉と骨がばらばらになり、ラウンド間も泥のように 眠る⇒1週間で正常に戻る)
□参加者の反響で素晴らしかったのは、食事後の柳内さんの 講話であった。皆疲れているにもかかわらず「指導者の語る 夢」に、身も心も熱くなりました。

□運営の面では、借艇の基礎・繰り返し教育に加え 新人合宿、レース合宿の基礎を身につける。
  1)全ての出艇に 先輩方が1〜2名乗って尻・腰の痛さに耐えながら 艇の扱い、漕ぐ指導
  2)全員が交代で食当、部として初めての経験 失敗、未熟から即経験者配置替えで改善
    皆で経験して 学び 次に生かされ、常に改善・進歩。
  3)合宿に必要な オールやリガー、シート、工具、炊事、機材運搬は新人の仕事
 
※2 大学からの要請 一方 昭和38年理工学部事務局は秋の本格移転に備え 54号館地下に「理工展の文化系に加えスポーツ系」サークル協議会・部室・ユーティリィ・ミーティング・トレーニングスペース、を用意していた。既に37年に 理工ボート主催になった相模湖での各学科参加のボートレース(旧水上運動会)を立ち上げた実績をもち、早くから1年生が入り浸り活発に陸トレ活動しているボート部を中心に、スキー部、ワンゲル、他スポーツ系を加えた サークル協議会の立ち上げを要請された。

 そして、サークル協議会の最初の仕事が相模湖でのボートレース以外の種目も加えた「理工スポーツ大会」開催であり、ボートレース以外、山登り競争、パン食い競争、ドッジボール等であったように記臆している。このように(どこも上級生があまり顔を出し難い情況の中で)、内外の問題に部室での議論が良し悪しは別にして活発であった。

□後々(平成9年頃理工学術院への改組で部室喪失まで)この部室に代表された自由闊達な議論が 理工ボートの自治を支えてきたと云っても過言でなかった。

(5) 理工学部当局は@前記昭和36年からの「体育局・水上運動会を少々強引ではあが、理工学部ボート部主催のボートレース」に変更し、 A昭和38年の「第一回の相模湖での(総合)理工スポーツ大会」開催にこぎつけた 理工ボート部の協力・努力を高く評価してくれていた。 昭和38年秋アルバイト購入したナックルフォア1艇しかない中で 借艇での練習を重ね レース出場3年目の40年秋、大学ナックル選手権2位、相模湖レガッタ優勝を勝ち取ることができました。

 昭和40年・年度末 当時の難波学部長、村松教授・ボート部長、浮田監督、の働きかけにより 早稲田大学理工学会・荒尾副会長(浮田監督の会社の上司浅野セメント副社長)より「早稲田大学理工学部にとって顕著な貢献を果たした活動」に対し表彰され 「エイト1艇とオール2セット」が買えた金額の副賞を併せていただいた。草創期の理工ボートにとって タイムリーで強力な梃入れ・支援をいただきました。活発な活動に拍車がかかり、昭和40年代 かけがえの無い多くの部員が入部し、艇購入等の経済的にも完全に自立できるようになってきました。

□書き終わるに当り、草創期の支援後 2回目の支援をいただいたことを改めて報告いたします。 全日本軽量級エイトにおいて優勝し、コペンハーゲンでの世界選手権に出場・派遣のため 1600万円近く集めることができました。「早稲田大学において同好会クルーが優勝して世界選手権に出場できることは、2度と起こらないだろう。是非遠征に行かせてやって欲しい」のお言葉があった。それらの費用の多くは、理工学部の250名、本学の550名の先生方の寄付によるものであったことを 改めて報告いたします。さらに、遠征費用の余剰金350万円を 理工学部に寄付として返却に伺ったところ、「学生達にエイトでも買ってやってください」のお言葉でした。