碧水会のリレー随想   武田俊輔  1980年 工業経営科
 e0014
  理工ボート部から津久井高校ボート部監督になって  
原稿受領日:2011.07.25
 リレー先指名 : 熊谷政行(1977)、井熊均(1981)

 大先輩の渡辺さんからのご指名光栄に存じます。『津久井高校監督の武田』とのご指名でしたので、理工と、その後の津久井高校ボート部監督としての体験を書かせていただきます。

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 勢いのあった大所帯だったころの理工ボートでの体験は皆さんと同じだろう。理工ボートが強いことは高校時代から知っており、私は入学前から理工ボートに入ろうと決めていた。何でもよいから日本一になりたかったのである。

 入部早々、インカレで付フォアのコックスが足りないので誰かできないかという話が出た。6月のことだったと思うが、いきなりインカレに出場させてもらえるという。1年生の身分で図々しくも自ら志願したものの、当時体重は75s以上あったので誰も相手にしてくれなかったが、他に志願者がいなかったので、選んでもらえた。わずか2か月で51sまで減量し3位に入賞することができた。3年ではダブルスカルで全日本2位になったが、結局優勝はできなかった。自分にはスポーツ選手としての素質がなかった。そこでひらめいたのが、教員になり、高校生に日本一、世界への思いを託そうという遠大な人生を賭けた計画であった。

 教員免許取得のために1年浪人をして教育学部に通い、念願のボート部がある神奈川県立津久井高校に赴任した。練習場所は皆さんご存じの相模湖である。赴任当初、津久井高校は部員男子5名、女子1名の6名、栄養失調のような虚弱児ばかりである。転勤の挨拶状には、『世界に行くまで津久井にいます。』と書いた。当時、同じ神奈川県の慶応高校が全国のトップに君臨していた、これじゃあ、いつまでたっても県予選も勝てないんじゃないか、と思うと、不安で夜も寝むれなかったことを今でも覚えている。

 まず、理工時代からの縁で、荻野に合宿に行った。高校ボート界の重鎮、現地の喜多方商業高校の中島先生に教えを乞うためである。生来の図々しさで門をたたいた。初対面にもかかわらず、先生は快くさまざまな情報を提供してくださった。ボートについて恐ろしいほど研究されており、膨大な資料をお持ちだった。先生のご厚意でそれらをすべていただくことができた。これがその後の自分自身のバイブルになるわけであるが、大きい奴らを集めればすぐに日本一になれるというような自分の考えの甘さを徹底的に打ちのめされた。『俺って甘いな、こんなにボートに打ち込んでいる人がいる。日本一はどれだけ遠いんだ・・・?』

 資金ももちろん足りなかった。強くなるにつれて金は必要になる。赴任数年後には部員数は100人近くにも膨れ、ボート部活動の年間予算は1500万円を超えていた。公立高校にはあり得ない予算だった。それを自分で捻出しなければいけないのである。高校生に、縁日でテキヤまがいのことまでやらせたりもして金策に奔走した。

 理工ボートで年末にお歳暮の配送をさせられ、団体援助金なるものをピンハネされたことはよく覚えている。このアイデアが役に立った。ただし、津久井高校の場合はアルバイト代も全額ピンハネである。ある時、剣道部と一緒に武者行列にボート部の生徒を参加させたことがある。剣道部の顧問はおろかにも生徒にバイト代を渡してしまった。それを知ったボート部の生徒が、自分たちにもバイト代をよこせと騒ぎ出したとこがあるが、『ふざけるな!』と一蹴した。よく親御さんが文句を言わなかったなと今でも思い出しては自分のしていたことが恐ろしくなる。

 大型バス2台を含めて移動用車両を4台も保有し、夏は北海道網走、春、冬は愛媛県の宇和島というところで合宿した。年末年始も合宿所で過ごした。合宿の合間に知床や四万十川に遊びに行き、ボートは二の次でボート部にいることが楽しいという生徒も多数いたと思う。何もかもが理工の延長だった。高校生に合宿の飯も作らせた。その悲惨さは皆さんのご想像のとおりである。まさに自分がいたころの理工ボートそのままであった。

 世界が見えてきたころ、一つのことを思いついた。自分は体育の教員ではない。日本代表のコーチになるにはハンデがあるが、他の高校のコーチもみんな自分同様に頭も筋肉だ。英語ができればいいのではないかということが頭に浮かんだ。自分は高校時代、英語は赤点で、大学でも単位を落としていたが、それから猛勉強を始め1年で話せるようになった。
必要に迫られれば何でもできるものである。

 予感は見事に的中した。自分の学校の選手が1989年に初めて日本代表に選ばれた。大会ではマネージャーミーティングが毎晩開催される。英語のわかる人材がいないので、自分がコーチに選ばれた。以降、数年にわたってジュニアのコーチを引き受けることになる。さらには、日本ボート協会が当時Drew Harrisonというカナダ人のプロコーチを雇っていたので、通訳兼アシスタントコーチとしてシニアの国際試合やコーチ会議などにも多数参加させていただいた。Harrisonはすごいコーチだった。ここでも、大いに勉強させていただき、荻野の中島先生の時同様、自分の不勉強を改めて認識させられることになる。

1989年世界ジュニア選手権初出場はコテンパンに負けて、次の目標は世界の決勝進出に代わった。以来、毎年のように日本代表に自分の学校の選手が選出され、自分もコーチに選ばれた。数年後、ついにシングルスカルで決勝進出を果たした。コーチは皆バカだから夢を見る。決勝の前の晩は、明日勝てば世界一だ、と思うと胸がときめいて寝付けなかった。素晴らしく気分の良い夜だったことを記憶している。そして決勝当日、その夢はスタートの瞬間に無残にも打ち砕かれる。あっという間に他の5艇に置き去りにされたのだ。準決勝は6艇の3艇上がりであった。4位まで接戦で日本はぎりぎり3位で決勝に進出した。もしかしたらメダルとの思いはあったのだが・・・。そうか、奴らは準決勝は流していたんだ・・・。

 当時津久井高校のトップをシングルスカルで全日本に出せばメダルは取れた。全日本新人で鮮明に記憶に残っている準決勝がある。某N大の大応援団が『高校生に負けるな』とか、声をからせて応援していた。自分は生徒には、決勝があるから1メートルも勝てばいいぞ、と指示していた。相手を見ながら本気でこぐのはせいぜい最後の10本だけである。全日本新人戦レベルの準決勝ではいつものことだった。

 結果は予定通り、素人目には大接戦の末の津久井の辛勝であった。応援の大学生たちは本気で勝てると思っていた。相手の選手は、ゴール後ロウアウトし、沈、モーターボートに救助されそのまま救急車で病院に搬送された。幸い大事に至らずに済んだのだが、『俺ってバカだな、あの時の大学生達と同じじゃねえか。世界のレベルがなにもみえていなかったんだ・・・。』

 それからあとは、惰性の日々だった。世界にはいつでも行ける、ただ、国内選考会の時点で順位も予見できてしまう。あの世界選手権の決勝の場で勝てる選手が現れるのを定年まで待ち続けるのか、そんな自問自答が続いた。生徒にはずっと、『人はその望むところまで強くなれる』と説いてきたし、自分でもそう信じてきた。しかし、日本代表がはじめて参加した世界の決勝を目の当たりにした時、優勝のイメージを描くことは到底できなかった。世界一の望みが絶たれた瞬間であり、同時に自分のボートの終わりだった。

 自分が退職した後、津久井高校も低迷が続いた。部員が3人しかいないという時期もあったが、今年、久々にうれしいニュースがあった。十数年ぶりに日本代表が津久井から選出された。1989年に自分が初めて世界ジュニア選手権に連れていった教え子の息子である。

 歴史は繰り返される。今の理工の現役への対応を見ていると、私見ではあるが、古い教育者、指導者としての見地からはいささか過保護な気がしないでもない。『人はその望むところまで強くなれる』この言葉をそのまま現役にも送りたいと思う。渡辺先輩の随想にもある創部の精神「漕ぎたい者は漕げ、学びたいものは学べ」がそのまま自分のいた津久井高校の精神であった。そのDNAは理工においても絶えていない。再び勢いのある理工ボートが復活すると信じたい。

 ボートの世界は広い。学生の意識改革ももちろん必要だが、コーチングスタッフの皆さんも、勉強することは山ほどある。理工のボートだけでは井の中の蛙である。常に向上心、探究心をもって外に目を向け、最先端の情報を収集し、現役指導にあたっていただきたいと思う。コーチとして最も大切なものは熱意である。

次期氏名:
・私が1年の時の4年生で、ろくでもないコックスであった私にインカレ3位入賞の貴重な体験をさせてくださった熊谷先輩を僭越ながら指名させていただきます。
・長年にわたり、理工ボートのコーチングに尽力された1年後輩の井熊君を指名します。