碧水会のリレー随想   諸留和夫  1968年 建築学科卒
 e0011  Hさんのこと   原稿受領日:2011.06.17
 リレー先指名 : 青木淳(1968)、奥村徹(1969)

 原稿はなんでもよろしいとのことなので作成しました。
 ボート関連ばかりでは食傷気味になるかとおもい、また文中のHさんのことをこういう人も居たんだと多くの方にも知ってもらいたくて・・・


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  Hさんとは現場が一緒になったことはなかったが現場の土地が同じになったことが多かった。Hさんは北海道大学を出て1年先に入社していた。最初は苫小牧で同じプレハブの宿舎だった。私は日軽金の苫小牧工場で彼は明治生命の現場だった。冬になり北海道から冬季転勤となり二人とも現場は違ったが奈良だった。春になり北海道へ戻ると今度は同じく札幌だった。

 その後2年位は別々だったが昭和46年に今度は旭川出張所で一緒になった。層雲峡で私はホテルの現場で彼は郵政の保養所の現場のこともあった。そこが終わったあとは離れ離れとなった。数年経ち私は東京へ転勤してきた。彼はもともと北海道出身なのでその地に残っていた。

 その年の12月の社報にHさんの訃報が載っていた。驚いて旭川の事務員さんに電話をして聞いてみると女に胸を刺され殺されたとのこと。詳しくきくと同棲をしていたのだがHさんに正式な結婚話がでて別れ話が持ち上がりそのトラブルで酔って帰った夜に被害にあったという。

 彼と同期で東京出身の人がいて私もその人と同郷ということで親しくしていましたが、彼は北海道にいる間毎年墓参りに行っていました。彼によるとお母さんは長い年月泣いて暮らしたそうです。大学を出て、会社へ就職し、仕事は出来るし、性格も良いし、顔もハンサムだった、これから本当の人生というところだったのに惜しい人を失くしたと思う。もうあれから36年が経つ。いまでも私が旭川出張所に初めて行ったとき彼は図面を描いていて顔を上げ、「イヨーッ」と笑って挨拶をした笑顔が忘れられない。

 新聞記事等に男女の関係のもつれ話はよく見聞きするが身近なことになるとお思いはひとしおです。自分は東京へ帰ってきたときは結婚していて子供も二人いたのでそのような場面に逢うことはなかったが、子供が大きくなってからは彼等に注意してきた。

 人はだれも寿命がくればなくなっていきますが成る丈幸せな人生を生きていい死に方をしたいと思います。