碧水会のリレー随想   渡辺 紀仁  1964年 機械工学科
 e0009  理工ボート初めの始め   原稿受領日:2011.06.02
 リレー先指名 : 白田 裕一(1974)  武田俊輔(1980)

 目次
1.理工ボート初めの始まり
2.じっと我慢その1
3.
艇なしトレーニング:
4.初の自艇ナックルフォア誕生秘話:
5.本ちゃんよりコーチ招へい
6.
創部の精神
7.じっと我慢その2
8.初めての荻野合宿
9.初めての相模湖合宿
10.理工ボート部主催初めての理工学部ボートレース
11.初めての相模湖レース
12.前白井総長との出会い
13. 感謝の気持ち


1.理工ボート初めの始まり
 中島田の記事にある通り、意思半ばにして体育局漕艇部を辞めざるを得なかった、中島田・柳内・高橋・佐藤・稲葉の5人が創部を思いつき、部員募集を始めて小生が加わり、昭和37年春に6人でスタートする事になった。当時戸塚キャンパスの安部球場(注1)寄りに、理工の教室があり、学校がその中庭に掘立小屋を建てて、小さい乍らその一室を理工ボート部室として借り受け、産声を挙げた。

 当時の鋳物研究所の仲間が、バーベル造りをしてくれ、トレーニングの一助となった。しかし乍ら、艇はなく、隅田川沿いの体育局艇庫や柳内の出身校開成高校から艇を借用して、隅田川でナックルをこぎ始めた。部員は12-3名であった。

 昭和35~40年頃は戦後高度成長期の真っただ中で、全ての工場から黒煙が吐き出され、隅田川の川面は一面のへどろで覆われ、漕いだ後は艇の底にへどろがびっしり貼りつき、掃除が大変であった。
 注1:現図書館のあたりか?

2.じっと我慢その1:
 1937年秋台風の数日後、中島田・柳内・小生は高橋の車で、早稲田から相模湖まで20号線をひた走り、峠もエンストせずになんとか相模湖湖畔に到着してびっくりした。湖面は文字通りおびただしい数の倒木で埋め尽くされていた。それから旧艇庫の辺りにたどりつき、艇庫のおやじ石井さんに、艇の借用を申し入れたところ、第一声は 「お前ら、ボート漕げんのか?」 ときた。ここは
じっと我慢。これが、おやじとの長い付き合いの始まりである。

3.艇なしトレーニング:

 創部二年目1938年の春に、現OB会長の高見をはじめ、21人が一挙に入部した。当時、艇はおろか文字通りなーんにもなし、で はたと困り、苦肉の策で、船に乗りたい奴は足腰を鍛えろ、ということで陸トレだけを始めた。

4.初の自艇ナックルフォア誕生秘話:
 とはいえ、自艇を持ちたい希望にあふれており、夏休みに部員全員アルバイトで一人8,000円づつ供出する事となった。総額25万円を確保することが出来た!資金確保の目途をつけて、デルタ造船の谷戸社長に建造を申し入れた。ちなみに、エイトは40万円=トヨタクラウンと同じ。新艇は、当時荒川にあったデルタ造船所の艇庫に保管させてもらったと思う。

5.本ちゃんよりコーチ招へい:
 当時の体育局漕艇部部村松部長(工業経営教授)のはからいにより黒河内氏を初代コーチとして招へいした。それ以降、筏氏等二三人にコーチとして指導を仰いだ。こうして、キチンとした漕法を身に付けた事が、その後の漕艇会での活躍に繫がったことは、謂うまでもない。

6.創部の精神
 こうして「、漕艇部としての体裁」が整いつつあったが、大きな課題を抱えていた。それは、中島田に替えて、次期監督をだれにするかということであった。部員全員が理工学部の学生である限り、学業をおろそかにして、漕ぐこと・強くなることだけを目標にするものではないが、強い部にしたい気持ちも大きかったのも事実である。ボートを漕ぎ学校にも出、しかも強くなるには、底辺を広げることが一番である。
 
 監督候補は二人いた。一人は強くなりたい一心で一番の力持ちである。彼は若くして他界された。さて、次期監督は漕ぐ実力もあり、部全体をまとめる力がある者ということで、近藤に白羽の矢が立った。この選択が正しかった事は、しばらくしてから実証されることになった。二代目マネジャーとして、高見が小生の後を継いだ。

 「漕ぎたい者は漕げ、学びたいものは学べ」 が創部の精神として定着することとなった。

7.じっと我慢その2:
 こうしてやっと手に入れたナックルフォアであるが、オールの色を巡ってひと悶着あった。荒川で古いナックル艇を借用していた関係で、ほんちゃん(体育局漕艇部)清瀬マネジャーに、新艇の報告に行った。清瀬は開口一番、“紛らわしいからオールの早稲田カラーはまかりならんっ”
o(>_<)oと申し渡された。

 ここで喧嘩してはならじと
じっと我慢した。しばらく無言の後、“我々も同じ早稲田の学生であるので、早稲田カラーをいかんとは、すこしおかしいんじゃありませんか?なんとかなりませんか” と粘った。しばし無言の後、”わかった。そのかわりブレードの上方に白線をいれろ“ということで、結局白線を一本入れることで決着した。

8.初めての荻野合宿
 荻野に合宿所があるらしいがと中島田にいわれて、即列車に飛び乗り、荻野駅前の自転車屋のおやじ(福島県漕艇連盟副会長)に会う。前の週、慶応の学生さんが来たよ!といわれて、即艇借用を申し入れ!艇庫と艇を拝見したあと、合宿所のおばさんを紹介された。寝床は綺麗・清潔とは程遠いものであったが、一度に全員寝られる場所を確保した。野菜・卵の仕入れの事など聞いてトンボガエリした。

 合宿には35人が参加した。とにかく毎日三食準備するのはてんてこ舞いであった。毎日のメニューを考えるのは、とてもとても無理と悟り、合宿が決まった後、栄養短大の正門近くで待ち伏せし、二人連れの女生徒をつかまえて二週間のメニュー作成を依頼した。合宿所でメニューを見た中島田が小生の彼女に作らせた、と勘違いしたが残念ながらそうはならなかった。当の中島田は、アツアツの彼女と時々逢引していた、と記憶している。

9.初めての相模湖合宿
 相模湖漕艇場のおやじ(場長、寿司屋の主)に会って合宿でのナックル拝借を申し入れ。旧艇庫のナックルを拝見し即借用申し入れ。

 その際に、おやじがちょっと頼みがあるんだがといわれた;旧艇庫のナックルフォア25はいを、300Mはなれた一時置き場に移動してもらいたいとの申し入れをその場で即快諾!初めての合宿の合間、全部員で300Mはなれた一時置き場に移動!

 3月初めの氷雨の中、大変な重労働であったが、だれも一言の文句もなしに実行してくれた。それ以降、おやじの“顔が良くなった”のは謂うまでもない!それ以降”
月夜野”という古い旅館を定宿とした。

10.理工ボート部主催初めての理工学部ボートレース(その後理工スポーツ大会になった):
 荒川でのレース実施にあたり、ほんちゃんの清瀬氏からも借りたが、足りない分はやや上流の物産からなんばいか拝借した。隅田川で、初めて我が理工ボート部が、大会を取り仕切った。その翌年は、戸田コースで実施した。こちらの方は、ひやひやものであった。

11.初めての相模湖レース
①学部長に交渉 :
 理工学部の難波部長に会い、『レースの実施にあたり、各科5人づつの相模湖合宿を予定している。これは教育の一環である故、全参加者の欠席扱いは御容赦頂きたい!』 むねを申し入れその場で快諾を得た。

 その足で、相模湖の東京オリンピック・カヌー競技場に向かった(注2)。くだんの石井場長にあい、レース開催を申し入れ即快諾された。カヌーレースのランドマークをそのままとし、ユースホステルを全館10日間借り切った。

注2:東京オリンピックでは、水上競技が3種目実施された。戸田のボートレース、江の島のヨットレース、それに相模湖のカヌーレースである。相模湖ユースホステルはこのカヌーレースのために新設された。レースは、1960年10月20~22日であった。

②相模湖レース予算:
 当時の学友会会長から約50万円程度の予算を分捕った。今の貨幣価値にして500万円程度であろう。新聞紙にいれた軍資金を懐に、相模湖へとむかった。ひやひやものの大金であった。学友会の会長は4年生であるが、こちらは最高学年の5年生である。2-3分の議論で終わった。明細など彼に伝える義務はなと判断し、その足で相模湖に直行、おやじに会って全ての段取りを完了した。予算の一部でオールを新調した。

③相模湖レース
戦利品!
 戦利品はオール24本で、その後の部運営において大いなる威力を発揮した。レース後とにかくそのまま戸田艇庫に持ち帰った。理工学部長にも誰にも報告した記憶はない。

12.前白井総長との出会い
 『ああ、あの理工ボート部の渡辺さんですか!』 と理解が早かった。相模原稲門会で3度ほどお目にかかり、その後体育局漕艇部120周年記念大会で、当部40周年記念大会へのご出席を依頼し、結果当時の副総長にご出席頂いた。体育局の部長・OB会幹事長にもご出席頂いた。

13.感謝の気持ち
 コーチ招へいなどのぞき、ほとんどは単独行動しかも全て即断即決であった。いい悪いを言っている場合ではない。別に大変とかなんとか、誰かに相談するとかしないとかでもない。やるっきゃなかった。交渉事に裏も表もない。話は単純、すべてぶっつけ本番である。ただそれだけで3年間突っ走った。その後しばらくして世界選手権に出場出来たことは、周知のとおりである。

 然しながら、部創立当初、多くの方々に支えられて今日があることを忘れてはならない。
前白井総長・松村部長・デルタ造船谷古社長・同山口部長・本部のマネジャー清瀬氏、体育局漕艇部片山部長・同稲門会幹事長・初代コーチ黒河内・二代目コーチ筏各氏・当時の理工学部難波部長等々、極めて多くの人々のサポートがあって初めて今日がある事を記憶にとどめ、感謝の意を表して筆を終えたい。

平成23年6月吉日 初代マネジャー 渡辺 紀仁

次期指名:
世界選手権の詳細報告の為、白田 前OB会長を指名させて頂きたい。
また、かって津久井高校監督として活躍した、武田君を指名したい。