碧水会のリレー随想   中島田 正徳 1964年 機械工学科卒 
 e0004  理工ボート草創期の想い出  原稿受領日:2011.02.22
 リレー先指名:高橋清文(1964)、佐藤肇(1964)、渡辺紀仁(1964)

 もう半世紀も前の事、かすかな記憶をたどりながら書いています。1960年(昭和35年)入学で当初は体育会漕艇部に入部しました。同期の中で理工学部在籍者は柳内君、佐藤君、高橋君そして私の4人だったと思います。その頃理工学部はまだ本学内にあり、艇庫は尾久にありました。都電で早稲田から三ノ輪、荒川車庫行に乗って週に2,3回練習に通いました。片道確か10円だったと思います。国電(JR)の初乗りも10円、銭湯が17円、学食のラーメンが25円という時代です。 
                
 翌年の正月に母が急逝したこともあり、私は合宿に参加しなかったりして少し空白ができました。開成時代からのボートマンの柳内君も体調(腰痛?)不調で練習もままならなかったように記憶しています。もともと、理工学部は実験とか実習とかで他学部に比して時間的な制約が多く、練習スケジュールに合わせるには多少無理な面がありました。佐藤君の寮が学校のすぐ近くにあり、4人でよくたむろしていましたが、そんな中で「理工学部のボート部を立ち上げよう。そうすればより多くの人がボートを楽しめる。」という事で、1年生の終わり頃、4人とも相次いで体育会漕艇部を退部し、夢をふくらませて理工ボート部が発足しました。

 慶応の医学部にはすでに「赤水会」というのがあって、そんな会をイメージしていました。どんなスケジュールを立てたか定かに覚えていませんが、新学期になって新入生の部員を募る前に、第1回目の部員募集をしました。上級生、同期合わせて5,6人の応募があり、私たち4人と合わせて10人くらいの部員でスタートしたように思います。

 艇はおろかオール1本もないスタートですから、時々ナックル4を借りて練習するほかは甘泉園での陸上トレーニングをやっていたように記憶しています。その年の夏は先ず自前のオールを揃えようとアルバイトなどで資金を作りました。確か1本5千円で私たちにとっては高価なものでした。そんなこともやってはいましたが、部活自体はなかなか活発にならず、一度ならず解散寸前になりました。

 そんな時に「しっかりやろうじゃないか。」と叱責し続けてくれたのが第1回目の募集で入部した同期の渡辺紀仁君です。彼の地味なマネージャー的活躍や柳内君のボートへの情熱がボート部を何とか存続せしめる大きな力となりました。また、財政的な面では学部の年中行事として行われていた理工学部のボート競走会の開催の委託を受けたことで一息つきました。相模湖で大勢の学生が参加して行った競走会が懐かしく思い出されます。
 
 後輩の皆様の熱意と尽力により半世紀にわたる歴史をきざみ得たことに、草創期に関わった一人として、感謝の気持ちと、感慨を覚える次第です。これからの社会では、ますます全人格的な指導者が期待されます。理工ボート部の堅実な発展を心からお祈りいたします。