碧水会のリレー随想  柳内龍二 1964年 土木工学科卒 
 e0001 理工ボートと私 =私説 理工ボート史(第1部)=  原稿受領日:2010.10.10
リレー先指名:中島田 正徳(1964)、近藤 修司(1967)

 現在の理工ボートの旗揚げは昭和37年(1962年)4月と記憶します。当時学部3年生となっていた数人の理工学部生が中心となって活動が開始されました。私もその一人でした。

 私達が早稲田に入った昭和35年は所謂「60年安保」の年で、入学当初の学内は国会へ向かうデモ隊や学内のあちこちで行われている集会の喚声で、連日騒然とした雰囲気に包まれていました。授業も極めて不規則で、新入生にとっては、「大学とはなんだろう?」と戸惑いを感じさせるものでした。野球の早慶6連戦で休講が続いたのも昭和355月のことです。

 この年体育局ボート部には4人の理工学部学生が入部しました。高校時代柔道をやっていた中島田(機械科、久留米大付設高)、野球部のエース・ピッチャ-であった佐藤(電工・日比谷高)、高橋(電通・北野)の3名は入学式会場で勧誘されて入部しただけあって、何れも身体的には恵まれていました。特に中島田はすぐに新入生の中のリーダー格となり、新人だけで組んだエイトの6番手として8月に行われた商船大とのレースに出場するまでになっていました。

 2学期になり授業は漸く正常化されました。平日の午後には物理および化学の実験がそれぞれ行われていましたが、この2科目は機械科では1年の必修でした。一方ボート部では月曜以外の6日間が練習日で、平日は午後3時が尾久熊野前の早大艇庫の集合時間です。この調整が重くのしかかってきました。

 早稲田大学ボート部は昭和30年代の始めまでに、エイトの全日本優勝回数で東大、一橋に次いで3位で8回を数えていました。これ以外にも1932年のロサンゼルス・オリンピックにエイト、1936年のベルリン・オリンピックにはフォアで日本代表となっていました。太宰治の弟子で青春小説「オリンポスの果実」の作者 田中英光はロス代表エイトの4番だったと思います。このように早稲田ボートは名門中の名門を自負していましたが、昭和28年の全日本選手権を最後にエイトの優勝から遠ざかっていました。一方ライバルの慶応は昭和31年8月のメルボルン・オリンピック代表選考レースで、大接戦の末に、京大に「艇差1尺」で勝ちエイトの代表となりました。更に、余勢を駆ってこの年昭和31年,32年,33年の全日本を3連覇し、隆盛を誇っていました。慶応に比し早稲田の低迷は明白でした。

 低迷する組織は往々にして硬直的で非寛容なものですが、今にして振り返ると、当時の早大ボート部も例外でなかったように思い返されます。理工学部の1年生の学習環境が文系学部の1年生のそれと、個人の努力では到底埋めきれぬ程に隔たっていると言う現実に配慮する柔軟性と度量にかけていました。人一倍の資質も情熱もある中島田の悩みは顧みられることもなく、彼は1年の終わりには退部するに至りました。先に述べた新人エイトのメンバーの大半も1年の秋の終わり頃にはそれぞれの理由で退部して行きました。

私の場合は、高校1年の夏に、全くの幸運でボート(ナックル・フォア)の国体代表となり、その後の高校生活は全国大会の上位入賞を目指す日々でしたので、大学ではボート以外のスポーツをしようと考えていました。そんなある日、久しぶりに会った先輩にボート部に誘われ、煽てられるままに再度ボートを漕ぐことになりました。入部は1年の6月でしたが、「またボートを漕ぐからには...」と言った、ある種の決意をもっての入部でした。幸い、専攻の土木では、物理、化学の実験は必修で無かったため、中島田のようにこの点で悩むこともなく、ボート部の練習には文科系学部の部員と同じように参加出来ました。秋も深まる頃には、受験時代に落とした体力が戻ってきていることを実感できるようになりました。

 この年、即ちローマ・オリンピックの行われた昭和35年暮れは、日本のボートのトレーニング法に大きな変化が見られました。ボートの練習に、ウェート・トレーニング、サーキット・トレーニングを採り入れて、基礎体力の強化を図るようになったのです。今では当たり前になっているウェート・トレーニングは後に述べる例外を除いて、ボートの練習では昭和35年以前は行われていなかったのです。早稲田の艇庫にバーベルが持ち込まれたのは、昭和35年の暮れからです。それ以前は艇庫にあるのは、艇、オール、バック台だけで、バーベルもダンベルも艇庫にはありませんでした。他の大学も殆ど同様でした。ボートの練習とはバック台で漕姿をつくるとともに腹筋を鍛え、その他は乗艇してローイング・スキルを身につけ、筋力と持久力は漕ぐことにより鍛えるという単純な強化法でした。

 唯一の例外として、東大はローマ・オリンピック前年の昭和34年秋から、スポーツ医学の石河先生の指導でウェート・トレーニング、サーキット・トレーニング、インターバル・トレーニングを採り入れ、基礎体力の強化に努めていました。半年後の昭和
35年春のローマ・オリンピック代表選考レースには、「圧倒的に」基礎体力の強い選手で固めたエイトとフォアを送り、ローマへは新人2人の乗ったフォアで代表権を得ていました。(エイトも東北大に次いで2位であったと記憶します。)この年の暮れには、漕艇協会の主催で(関東の)各大学の代表者を集めて東大式陸上トレーニング法の講習会が行われました。

 2年の春の早慶戦では付きペアに乗りながら対抗エイトの補漕の役を務めることになりました。3月半ばからの合宿では乘艇練習の他に、夕食後にウェート・トレーニングのメニューが用意されました。トレーニング法も不慣れで正確でなかったせいか、故障者が続出しました。対抗エイトのSサイドの時は私が代漕をしました。私自身の腰が異常を来してからも、代漕は続けていました。そんなことをしているうちに、私が最も重傷となりました。対抗エイトの漕手と同一メニューのトレーニングであったことにも無理があったのかも知れません。結局、2年に進級する直前には艇を下りる事になりました。この年の早慶戦対抗エイトは早稲田の記録的大敗でした。腰の痛みを感じながら言問橋からこのレースを観戦しましたが、無惨な負けレースに気分がますます落ち込みました(このレースの様子は観覧艇から観戦した慶応の小泉信三氏がロンドン在住の娘さん宛手紙に書いておられます)。

 練習は暫く休むことになり、中島田君とは頻繁に会うようになりました。戸塚町にあった佐藤君(前述)の居た寮に行ったり、2学期からは私の入った目白の和敬塾で会ったりしました。そして会えば、ボートの話をしました。二人ともボートに対し強い愛着を持っていました。そして異なる理由ではありましたが、二人ともボートから離れたことにより、心に空虚感を持っていました。学生時代のこの時期に、学業は勿論のこと、学業の他に全力で打ち込めるものが欲しい。偶々二人の場合はそれがボートだ。そもそも理工学部の中に、二人の、いや理工学部学生のその様な思いを受け止める「場」があるのだろうかと考えるようになりました。周囲を見渡すと、適当に授業に出て、雀荘でガス抜きをして学生生活を送ることで納得してしまっているのではないかと思わせる雰囲気も感じました。

 こんなことで我々も、そして早稲田も良いのか、何か自分たちで変えてゆかねばならぬのでないかと議論が大げさになって行きました。今考えると所々に論理の飛躍も見られますが、当人達は真剣でした。「すぐに話を大きくする」、「すぐに天下国家の話をする」などが当時の学生気質であったかもしれません。また、この前年にアメリカで生まれた青年大統領ケネディの就任演説の中の「諸君は国家に何を求めるかではなく、国家に何を貢献できるかを考えて欲しい」との言葉は、当時の若者の心に響いていました。この言葉に二人とも影響を受けていたのかも知れません。2年の秋も深まり、私の痛めた腰の回復が思わしくなく、漕手復帰を諦めざるを得ないかと考える様になってからは、理工学部の学生が学業と並行してボートを漕ぐ「場」は出来ぬものか、どうしたら出来るかと語り合うようになりました。

 もともと、理工学部にはボートを漕ぐ土壌がありました。私の入学した昭和35年にも、「理工科レース」と呼ぶ、学部内のボート・レースが行われました。学科別、学年単位でクルーを組み、これがクラスの代表としてほぼ同じメンバーで1年1回のレースに出ていたので、メンバーは「自分はボート選手だ」と意識していました。「学生時代理工科レースで漕いだ」と懐かしがる先輩にも何人かお会いしました。

 「ボート部員募集 ○月△△日 ××時 金城庵集合」のA3の手書きポスターが当時の理工学部校舎の入り口に貼られたのが、昭和37年(1962年)4月であったと思います。この呼びかけに応じて50人近くの理工学部生が集まりました。多くは1年生でしたが、「理工科レース」に出場した、金属科の4年生クルーと2年生クルーもクルー毎で参加していました。

 中島田が「@学業とボートの両立するクラブを目指す。Aいろいろのレベルの人間がレベルにあった目標を目指すクラブとする」と基本理念を熱っぽく語りました。@の学業とボートの両立は、学生にとって当たり前のことですが、当たり前のことを極めて真摯な気持ちで説明しました。Aのレベルに応じた目標設定については、体育局ボート部の当時の姿が教訓になりました。ボート部は名門なるが故の宿命として「全日本優勝」と言う目標を唯一の基準として運営が行われている様に見える点に、息苦しさを感じた経験からの思いでした。新人のうちは焦らずにじっくり育てるという姿勢が感じられず、恰も、新人のうちに「全日本優勝」と書かれた「踏み絵」を踏ませる、別の表現をすれば「全日本優勝」と書かれた「フルイ(篩)」で選別しているのではとすら感じました。

 大学からボートを始めた新人の場合、まだボートの楽しさを実感することも少ないなかで、上級生と共通の「フルイ」の目は狭すぎます。これが早稲田の選手層を薄くし、低迷を続ける原因と感じていました。理工ボートでは部員を同じ一つの「フルイ」にかけない。またフルイの目を通らぬものを排除するようなことはあってはならぬ。理工ボートに排除の論理は存在しないと考えていました。中島田の挨拶はその様な思いを述べるものでした。その後は酒の勢いも手伝って、「オリンピックも夢ではない」などと気勢を上げ、大いに盛り上がった発足パーティーとなりました。

 早速練習に取りかかり、週2回は甘泉園(現在の総合図書館付近にあった)や江戸川公園での陸トレと週1回の乗艇練習を行いました。艇は尾久にあった体育局ボート部の艇(ナックルフォア)借用しました。私自身が腰のリハビリ中のボート部員であるとの意識もあって、艇庫にあるナックルフォアを殆ど無断で使用しましたが、これが後に体育局ボート部と摩擦を起こす原因となりました。

 勢いよくスタートしたものの1,2ヶ月もすると中島田、柳内の指導陣も息切れするようになり、二人とも都合が付かず(気分が乗らず)、練習をキャンセルしたりするようになりました。上級生のこのような態度には下級生は敏感に反応します。とうとう夏休み前には活動も休止状態となりました。

 夏休み明けに再挙を期して再募集を行い、此処でも30名以上が集まりました。しかし、夏休み前、意欲的にトレーニングに励んでいた1年生のなかの数名は姿を見せませんでした。夏休み前の練習では新入生に向かって、学生生活のあり方や新生理工ボートの将来などを話しかけてきましたが、そんな時、我々の言葉に彼らは目を輝かせて聞き入っていました。自分たちの気まぐれが、新入生の何人かを失望させてしまったのだと思うと我々の言葉に目を輝かせて聞き入る彼らの顔が思い浮かんで、堪らない気分におそわれ、強い自責の念に駆られました。

 とはいえ、第2回旗揚げ後も、中島田、柳内の両指揮官のズボラさは変わらず、周期的に活動が低調になりました。何度目かの停滞時に、4月の旗揚げ時から参加し、中島田、柳内と同学年の渡邊(紀仁、金属科)が二人の前に現れて、「オイ、ボートどうするんだ」と詰め寄るようになり、活動が復活するといったサイクルが出来てきました。

 どうやら体制が出来てきたところに、「理工科レース」運営の話が飛び込んできました。「理工科レース」は体育局ボート部の運営でそれまで行われ、応分の経費が理工学部からボート部には支払われていました。そしてこれが、ボート部の財源でもありました。新生理工ボート部はこの点に目をつけ、学友会幹部に働きかけて「理工科レース」の運営を体育局ボート部から理工ボートに変更することに成功しました。学生とはいえ、何とも乱暴な行動で、体育局ボート部との関係を大いに損ないました。「理工科レース」は秋の相模湖で行われ、50名近い部員が、相模湖のユースホステルに数日宿泊して、学科、学年単位で編成したクルーの練習指導、レース運営、大会後の後片付けに総力を挙げて取り組みました。これが理工ボートとして最初の合宿といえると思います。

 「理工科レース」という決して小さくないイベントを運営し、そのための合宿をするという経験を通して、まとまりも良くなってきました。財務的にも部費以外の収入が入って少々潤いました。執行体制も固まってきました。即ち、

  部長:中島田正徳

  コーチ:柳内龍二

  マネージャー:渡邊紀仁

 の3年生が中心となり、2年生の渡邊(靖)、河村などに根岸、新中、田中の金属科クルーが加わって補佐の役割を担うようになりました。1年生の仲田、鈴木、八木沢もクラブを支える存在となっていました。

 昭和38年3月の春休みには、中島田、渡邊を中心に、相模湖合宿を行い、約20名の部員が参加しました。柳内は2年前の合宿中のケガで出席できずに未履修のままになっていた測量実習に2年遅れで出席するため、この合宿に参加しませんでした。セピア色の写真で当時の部員の嬉々とした姿を見ることが出来ます。

 前年4月の旗揚げ以来、勢いよく飛び出したかと思うと、いつの間にか姿を消し、そのまま消滅してもおかしくない状況に何度か陥りました。それでも不思議なことに復活しまして、何とか活動が続くようになりました。当初、指導陣の気分次第であったトレーニングも陸トレが中心でしたが定期的に行われるようになりました。「理工科レース」を取り仕切ったことで、理工ボートへの帰属意識も芽生えました。組織運営としての役割分担も行われるようになってきました。「理工ボート」元年は何度かの危機を乗り越えながらも、第2年目に続くこととなりました。(第1部 了)